
第1回 非常時の判断力は、平常時につくられる
― 日常の「考える習慣」がレジリエンスを育てる ―
事故や災害が起きた時、よくこんな言葉が使われます。
「慌てず、冷静に行動してください」
「周囲の状況をよく見て判断してください」
「状況に応じて臨機応変に対応してください」
もちろん、その通りです。
しかし私は、ここに一つ疑問を感じます。
普段から考える習慣のない人が、非常時になった途端に冷静に考え、状況を判断し、臨機応変に行動できるのでしょうか。
私は、非常時の判断力は、その場で突然生まれるものではないと考えています。
人間の脳は、できるだけ考えない
私たちは普段、一つひとつの行動を深く考えているわけではありません。
朝起きて顔を洗う。服を着る。駅まで歩く。電車に乗る。
そのたびに「次は何をすればよいのか」と考えていたら大変です。
人間の脳は、経験したことや慣れたことについては、できるだけ素早く自動的に処理します。
認知心理学では、このような速く直感的な思考をSystem1と呼びます。
一方、情報を整理し、比較しながら、意識して考えるのがSystem2です。
System1は決して悪者ではありません。
むしろ、限られた脳の処理能力を有効に使うために欠かせない仕組みです。
しかし、この便利な仕組みには弱点があります。
いつもの経験や直感に頼るため、状況が変化していても「いつもと同じだろう」と判断してしまうことがあるのです。
ここに認知バイアスが入り込む余地が生まれます。
非常時ほど、いつもの思考に引っ張られる
事故や災害などの非常時には、人は普段以上に冷静に考えられるようになるわけではありません。
むしろ反対です。
焦り、不安、恐怖、時間的な制約などによって、周囲を見る余裕がなくなります。
認知できる範囲が狭くなり、慣れた行動や直感的な判断に頼りやすくなります。
だから、
「非常時になったら、よく考えればよい」
では遅いのです。
普段から考えていなければ、非常時にも普段の思考や行動が出てきます。
そう考えると、非常時への備えとは、防災用品を準備したり避難訓練をしたりすることだけではありません。
普段から「考える」ということ自体が、非常時への備えになるのではないでしょうか。
日常の「なぜ?」を大切にする
私は、日常生活の中で起こる些細な出来事でも、
「なぜだろう?」
と考えることが大切だと思っています。
「なぜ、この人はこんな行動をしたのだろう」
「このまま進めば、次に何が起こるだろう」
「自分だったらどうするだろう」
「ほかの方法はないだろうか」
正解を出すことが目的ではありません。
大切なのは、一度立ち止まって考えることです。
一つの出来事について別の可能性を考えるだけでも、頭の中には新しい選択肢が生まれます。
そして、同じような状況に遭遇した時、
「あの時考えたことと似ている」
という経験が判断材料になります。
つまり日常生活そのものを、小さな思考訓練の場にすることができるのです。
Stop ― Look ― Think
そこで大切になるのが、私が安全教育で繰り返し伝えている、
Stop ― Look ― Think
です。
Stop
一度、立ち止まる。
Look
周囲を見る。そして、自分がどのように考えているのかも見る。
Think
このままでよいのか、ほかの可能性はないのかを考える。
これは作業を始める前だけに行うものではありません。
「自分は今、思い込みで判断していないか」
「いつも大丈夫だから、今日も大丈夫と思っていないか」
と、自分自身の思考を見ることにも使えます。
これがメタ認知です。
自分の考えを、一段高いところからもう一人の自分が見ているような感覚です。
認知バイアスを完全になくすことはできません。
だからこそ、「自分もバイアスに影響される」と知り、一度立ち止まって自分の判断を見直すことが重要になります。
レジリエンスは日常から育てる
レジリエンスというと、大きな事故や災害から立ち直る特別な能力のように思われることがあります。
しかし、安全を考えるうえではもっと身近なものです。
小さな変化に気づく。
この先を予測する。
状況が変われば対応する。
経験したことから学ぶ。
こうした力は、事故が起きた瞬間に突然身につくものではありません。
日常生活の中で、
「なぜ?」
「この次は?」
「もし違ったら?」
「ほかに方法は?」
と考える。
その積み重ねが、変化に気づき、考え、対応するための土台になります。
だから私は、
非常時の判断力は、非常時につくられるのではない。
平常時にどれだけ考えてきたかが、非常時の判断を支える。
と考えています。
特別なことをする必要はありません。
日常の小さな出来事を、そのまま通り過ぎない。
時々、立ち止まって考えてみる。
Stop ― Look ― Think
その小さな習慣こそが、想定外の出来事に対応するためのレジリエンスを、少しずつ育てていくのではないでしょうか。