
今日(12月17日)は、いろいろな場面で「人の本質」が見える一日でした。
事故でも災害でもありません。
ごく普通の日常の中での出来事です。
しかし、そこには安全や道徳と同じくらい重要なものが見えていました。
目次
三田駅で見た「モラルの欠如」
三田駅で電車を降りようとしたときのことです。
降りる乗客がいるにも関わらず、我先にと乗り込もうとする人がいました。
結果どうなるか。
人が詰まり、余計に時間がかかるだけです。
これは効率の問題以前に、
道徳の問題です。
- 先に降りる人を待つ
- その方が全体が早く動く
こんなことは、誰でも分かるはずです。
それでも出来ない。
ここにも、ヒューリスティックが関係しています。
「いつもこうしているから」
「自分が先に乗らないと損をする気がする」
こうした身勝手な経験則が、
モラルの欠如した行動を生みます。
阪急電車で見た「人の出来」
阪急電車の中では、まったく逆の場面に出会いました。
座っている斜め前に、妊婦マークを付けた女性が立っていました。
私は、見ていたアニメを止めて、席を譲りました。
特別なことをしたつもりはありません。
自然に体が動いただけです。
一方で、私の横に座っていた男性は、
見えていないかのように知らぬふりをしていました。
この瞬間、
人の出来は、こういう場面で現れるのだと強く感じました。
なぜ「自然に」できる人と、できない人がいるのか
これは性格の問題だけではありません。
ここにもヒューリスティックがあります。
- 普段から気にかけている人
- 普段から「そうするものだ」と行動している人
こうした人は、
考えなくても自然に体が動きます。
一方で、
- 見ないようにする
- 関わらない方が楽だ
という行動を繰り返していると、
それがその人のヒューリスティックになります。
人としてのヒューリスティック
ヒューリスティックは、
仕事や安全だけの話ではありません。
- 電車の乗り降り
- 席を譲るかどうか
- 目の前の人を気にかけるか
こうした日常の積み重ねが、
**「人としてのヒューリスティック」**を作ります。
そして恐ろしいのは、
良いヒューリスティックも、悪いヒューリスティックも、
無意識に身についていくということです。
道徳は「基本」であり、訓練でもある
道徳は、立派な言葉ではありません。
人の基本です。
しかし同時に、
繰り返し行わないと身につかないものでもあります。
- やろうと決める
- 日常で実践する
- それが自然になる
この流れがなければ、
人としての行動は育ちません。
安全も、道徳も、同じ構造をしている
安全の世界で言えば、
- 危険に気づく
- 正しい行動を取る
- それを習慣にする
これと全く同じ構造が、
日常の道徳にもあります。
だからこそ私は、
心理学と安全を学び、伝える立場として、
こうした日常の行動を軽視してはいけないと思っています。
人としてのヒューリスティックは、
事故現場ではなく、
駅や電車の中で、すでに作られているのです。
今日の出来事は、
そのことを改めて教えてくれました。