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人としてのヒューリスティックは、日常の行動に現れる

ブログ

2025.12.18

今日(12月17日)は、いろいろな場面で「人の本質」が見える一日でした。
事故でも災害でもありません。
ごく普通の日常の中での出来事です。
しかし、そこには安全や道徳と同じくらい重要なものが見えていました。

三田駅で見た「モラルの欠如」

三田駅で電車を降りようとしたときのことです。
降りる乗客がいるにも関わらず、我先にと乗り込もうとする人がいました。

結果どうなるか。
人が詰まり、余計に時間がかかるだけです。

これは効率の問題以前に、
道徳の問題です。

  • 先に降りる人を待つ
  • その方が全体が早く動く

こんなことは、誰でも分かるはずです。
それでも出来ない。

ここにも、ヒューリスティックが関係しています。

「いつもこうしているから」
「自分が先に乗らないと損をする気がする」

こうした身勝手な経験則が、
モラルの欠如した行動を生みます。

阪急電車で見た「人の出来」

阪急電車の中では、まったく逆の場面に出会いました。

座っている斜め前に、妊婦マークを付けた女性が立っていました。
私は、見ていたアニメを止めて、席を譲りました。

特別なことをしたつもりはありません。
自然に体が動いただけです。

一方で、私の横に座っていた男性は、
見えていないかのように知らぬふりをしていました。

この瞬間、
人の出来は、こういう場面で現れるのだと強く感じました。

なぜ「自然に」できる人と、できない人がいるのか

これは性格の問題だけではありません。
ここにもヒューリスティックがあります。

  • 普段から気にかけている人
  • 普段から「そうするものだ」と行動している人

こうした人は、
考えなくても自然に体が動きます。

一方で、

  • 見ないようにする
  • 関わらない方が楽だ

という行動を繰り返していると、
それがその人のヒューリスティックになります。

人としてのヒューリスティック

ヒューリスティックは、
仕事や安全だけの話ではありません。

  • 電車の乗り降り
  • 席を譲るかどうか
  • 目の前の人を気にかけるか

こうした日常の積み重ねが、
**「人としてのヒューリスティック」**を作ります。

そして恐ろしいのは、
良いヒューリスティックも、悪いヒューリスティックも、
無意識に身についていくということです。

道徳は「基本」であり、訓練でもある

道徳は、立派な言葉ではありません。
人の基本です。

しかし同時に、
繰り返し行わないと身につかないものでもあります。

  • やろうと決める
  • 日常で実践する
  • それが自然になる

この流れがなければ、
人としての行動は育ちません。

安全も、道徳も、同じ構造をしている

安全の世界で言えば、

  • 危険に気づく
  • 正しい行動を取る
  • それを習慣にする

これと全く同じ構造が、
日常の道徳にもあります。

だからこそ私は、
心理学と安全を学び、伝える立場として
こうした日常の行動を軽視してはいけないと思っています。


人としてのヒューリスティックは、
事故現場ではなく、
駅や電車の中で、すでに作られているのです。

今日の出来事は、
そのことを改めて教えてくれました。

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