
自分の心の中の「切り離し」とは何か? 〜見たくない感情の行方〜
皆さん、こんにちは。今回から5回にわたり、「ユング心理学」をテーマにした連載をスタートします。
「心理学」と聞くと、現場の仕事や日常とは遠い学問のように感じるかもしれません。しかし実は、私たちが職場で経験する「なぜあの人は突然キレたのか?」「なぜあんな初歩的なミスが起きたのか?」といった疑問を解き明かし、安全で働きやすい職場を作るための大きなヒントが隠されているのです。
第1回となる今回は、ユング心理学の最も土台となる考え方、「切り離し」についてお話しします。
心は「意識」と「無意識」でひとつの全体
スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは、人間の心を「意識」と「無意識」を合わせた「ひとつの全体」として捉えました。 私たちが普段「これが自分の気持ちだ」と自覚できている部分は、ほんの一部(意識)にすぎず、心の奥底には自覚していない広大な領域(無意識)が広がっています。
「切り離し」とは、感情にフタをすること
私たちは仕事や生活の中で、できれば感じたくない感情に出会うことがあります。 例えば、焦り、怒り、不安、自分の弱さ、老いへの戸惑いなどです。
そんなとき、私たちはついこう考えがちです。 「上司たるもの、怒ってはいけない」 「怖いなんて言ったらバカにされる」 「こんな弱い自分であってはいけない」
そして、本当はそう感じているにもかかわらず、「これは自分じゃない」「こんな気持ちは無いことにしよう」と、自分の中の一部を否定し、心の外へ追い出そうとします。 本当は感じているのに「そんなこと感じてはいけない」とフタをする心の動き――これを、ユング心理学では「切り離し(分離)」と呼びます
切り離された感情は「逆襲」してくる
では、切り離された感情はどうなるのでしょうか? 無かったことになるのでしょうか? 実は、決して消えるわけではありません。見えなくなっただけで、無意識の底に潜り込みます。
例えば、ある温厚な職長さんの例です。 部下の態度に腹が立っても、「上司として怒る自分は未熟だ」と怒りを消したつもりで抑え込みます。しかし、怒りは消えずに無意識に溜まり続け、ある日、些細なことで突然爆発します。本人すら「なぜあんなキレ方をしたのか分からない」と言います。これが、切り離した感情の**“逆襲”**です。
また、職長にきつく怒られた若い作業員が、心の中では「ムカつく」と感じているのに、「文句を言ったら面倒だ」と「気にしてません、大丈夫です」とフタをするケースもあります。これもそのまま溜め続けると、ある日突然の無断欠勤や退職につながったりします。
安全を脅かす「切り離し」
この「切り離し」は、職場の人間関係だけでなく、現場の「安全」にも直結します。
例えば、視力や反応速度が落ちてきた50代後半のベテラン作業員がいたとします。本人は「まだ若いもんには負けん!」と、老いという事実を切り離して認めようとしません。すると、無理な姿勢で作業をしたり、指差呼称を「面倒だ」と省略したりして、結果的にヒヤリハットや事故に近づいてしまいます。
あるいは、高所作業が「本当は怖い」のに、「男がそんなこと言ってはいけない」と怖さを切り離して「余裕や」と言い張る新人も同じです。怖さを認めていれば先輩に相談できたのに、できるフリをした結果、足がすくんで危険な事態を招きます。
「今の自分の状態」を知ることから始めよう
「怖い」「不安」「自信がない」「腹が立つ」――これらは、人間としてあって当たり前の感情です。無理に消す必要はありません。
大切なのは、「今の自分は、こう感じている」と、切り離さずに事実と気持ちを認めることです。「だからダメだ」と自分を責めるのではなく、まずは「自分の状態を知る」だけで十分なのです。
無意識に押し込められた見たくない感情は、いつの間にか私たちの判断に影響を与え、思いがけないトラブルや事故を引き起こします。
次回は、この「切り離し」が、人間の脳の「自動運転モード」や「思い込み(バイアス)」とどのように結びつき、事故の引き金になっていくのかについて、さらに深く掘り下げていきます。お楽しみに!