
目次
- きっかけ―再審請求のドキュメントから
- 心理的安全性という言葉が存在しない組織
- 実例①:大川原化工機事件―法廷で語られた「内部からの声」
- 実例②:袴田事件―証拠ねつ造の可能性
- 実例③:仙波敏郎さんの告発―「恥」として扱われる誤り
- なぜ内部からの指摘が潰されるのか
- 現場の安全管理に置き換えて考える
1. きっかけ―再審請求のドキュメントから
先日、テレビで再審請求を扱ったドキュメンタリーを見ました。無実の人が長年罪を着せられ続けてきた過程を追う内容でした。加害者と言われた被告は、再審請求が下りる前に獄内で死亡、死亡再審請求を残された家族が行うのです。
見ながら頭に浮かんだのは、私が普段の安全教育で扱っている「権威勾配」という言葉でした。
1977年、テネリフェ空港で2機のジャンボ機が衝突し、583名が犠牲になった航空機史上最大の事故があります。副操縦士も航空機関士も、機長の判断がおかしいと感じていながら、強く言い出すことができませんでした。上下関係の中で「言いにくさ」が命取りになった典型例です。
警察・検察の冤罪事件にも、これと同じ構図が繰り返し現れます。
2. 心理的安全性という言葉が存在しない組織
心理的安全性とは、チームの中で「これはおかしいのでは」と発言しても、不利益を受けないという安心感のことです。この概念自体は、警察・検察の組織内に存在しないわけではありません。むしろ、内部の人間は誰もが肌感覚として「言えない空気」を知っています。
問題は、それが制度として保障されていないことです。一度立てられた捜査方針や起訴の見立てに対して、部下や若手が異論を唱えることは、組織の「面子」への挑戦とみなされやすく、キャリア上のリスクにもなります。
3. 実例①:大川原化工機事件―法廷で語られた「内部からの声」
横浜市の精密機械メーカー、大川原化工機の社長らが外為法違反の容疑で逮捕・長期勾留された事件です。噴霧乾燥機を「兵器に転用可能な機械」として不正輸出したとされましたが、起訴は後に取り消され、東京地裁は捜査そのものを違法と断じ、国と都に賠償を命じました。
この裁判で注目されたのが、捜査に関わった現役の警視庁公安部の警察官2人が証人として出廷し、法廷で自ら捜査の問題点を語ったことです。ある警察官は、証拠の扱いについて問われた際、短く率直な言葉でその実態を認めました。巨大組織の内部から、自己批判とも言える証言が公の場で語られたことは、通常では考えにくい出来事でした。
ここで重要なのは、この「声」が事件の最中には表に出てこなかったという事実です。捜査を進めている段階では、内部の疑問が組織の意思決定を止める力を持たなかった。声が届いたのは、事件が崩れ、法廷という組織の外側の場に引きずり出されてからでした。
4. 実例②:袴田事件―証拠ねつ造の可能性
1966年に発生した強盗殺人放火事件で死刑判決を受けた袴田巌さんは、1日平均12時間、長い日には16時間を超える取調べの末に自白させられました。半世紀近くを経て再審が認められ、2024年に無罪が確定しましたが、静岡地裁および差し戻し後の東京高裁の決定は、捜査機関によって証拠がねつ造された可能性を認定しています。
この事件が突きつけるのは、一度「自白」という形で見立てが固まると、その後に出てくる矛盾した証拠が、修正材料ではなく「排除すべきノイズ」として扱われてしまう危うさです。心理学でいう確証バイアスが、組織全体の判断として固定化されてしまった例と言えます。
5. 実例③:仙波敏郎さんの告発―「恥」として扱われる誤り
元愛媛県警の警察官・仙波敏郎さんは、警察内部の裏金問題を現職のまま実名で告発したことで知られています。仙波さんは、誤認逮捕が「とても恥ずかしいこと」として扱われる組織文化があり、誤りを認めることそのものが避けられる空気があると指摘しています。
「恥」として扱われる限り、誤りは訂正すべき情報ではなく、隠すべき情報になります。これは、失敗を報告した人が非難される職場で労働災害の報告が上がってこなくなる構図と、驚くほど似ています。
6. なぜ内部からの指摘が潰されるのか
3つの実例に共通するのは、次のような構造です。
- 見立てが先に固まる:捜査方針や起訴の判断が早い段階で決まり、その後の情報はそれを補強するか、無視されるかのどちらかになりやすい
- 異論は「組織への反逆」に見える:上司や検察官の判断に疑問を呈することが、能力不足や忠誠心の欠如と受け取られかねない
- 誤りの発覚が「恥」になる:個人の失敗ではなく組織の失態として扱われるため、認めることへの抵抗が強い
- 声が届くのは組織の外側だけ:内部での軌道修正ではなく、法廷やメディアという外部の場でしか、疑問が正式な形にならない
これらはすべて、心理的安全性が欠如した組織に共通する特徴です。
7. 現場の安全管理に置き換えて考える
安全の世界では、Safety-Ⅱという考え方があります。事故が起きてから原因を探すのではなく、「うまくいっている現場」からその理由を学び、変化に対して柔軟に対応できる組織をつくろうという発想です。この考え方が成立するためには、現場の担当者が「これはおかしい」と気づいたときに、それを言葉にできる環境が前提になります。
捜査機関のような強い権威勾配を持つ組織では、この前提がそもそも成立しにくい。だからこそ、法廷という第三者の場で初めて真実が語られる、という現象が繰り返されるのだと思います。
私たちが企業の安全管理で心理的安全性を語るとき、それは単なる「働きやすさ」の話ではありません。誰かの命や人生を左右する判断において、異論を言える仕組みがあるかどうか。そのことの重みを、今回のドキュメンタリーは改めて考えさせてくれました。