
―メタ認知とStop-Look-Think―
■ 分かっていても、だまされる人間の脳
今週の月曜日に、ミュラー・リヤー錯視を紹介しました。
矢印のような形が両端についた2本の横線です。
実際には同じ長さなのに、違う長さに見えてしまう現象でした。
しかも、不思議なことに、同じ長さだと説明されても、違って見えることがあります。
人間の脳には、自分の意思だけでは簡単に変えられない働きがあるのです。
この錯視は、厳密には認知バイアスとは異なります。しかし、人間の認知には限界があることを理解するうえで、分かりやすい例になります。
今週は、そんな人間の脳の特徴を踏まえながら、3種類の認知バイアスを紹介してきました。
では、認知バイアスを学んだ私たちは、これからどのように行動すればよいのでしょうか。
■ 認知バイアスは、誰にでもある
火曜日には、正常性バイアスについて説明しました。
「いつも大丈夫だから、今日も大丈夫」
異常が起きていても、危険を小さく考えてしまう心理でした。
水曜日には、確証バイアスを取り上げました。
「自分の考えは正しい」
そう思うと、自分の考えを裏づける情報ばかりを重視し、反対の情報を軽視してしまうことがあります。
そして木曜日には、楽観バイアスを紹介しました。
「ほかの人は事故に遭うかもしれないが、自分は大丈夫」
危険を理解していても、自分自身に事故が起きる可能性を低く考えてしまう心理です。
この3種類のバイアスは、独立して働くとは限りません。
例えば、危険な作業を続けているときに、「いつもと変わらない」と考え、事故にならなかった経験ばかりを思い出し、さらに「自分なら大丈夫」と判断することもあるでしょう。
人間の判断には、さまざまな偏りが入り込む可能性があるのです。
■ 知っていても、バイアスはなくならない
ここで、今週の連載で最も伝えたかったことを、もう一度確認したいと思います。
私たちは、認知バイアスから完全に逃れることはできません。
心理学を学んだからといって、認知バイアスがなくなるわけではありません。
経験豊富な作業員も、現場を管理する職長も、安全管理の専門家も例外ではありません。
では、認知バイアスについて学ぶ意味はないのでしょうか。
決してそうではありません。
私は、まずバイアスの存在を知ることが大切だと考えています。
「自分も思い込みで判断することがある」
「自分の経験が、かえって判断を偏らせることがある」
こうした人間の特徴を知っていれば、自分の判断を見直すきっかけが生まれます。
ただし、知識があるだけで、必ず正しい判断ができるわけではありません。
バイアスを知り、その影響を考え、確認する行動につなげること。
そこまで進んで、初めて安全管理に役立つ知識になるのです。
■ 自分の考えを、もう一人の自分が見つめる
ここで重要になるのが、メタ認知です。
メタ認知とは、自分が何を考え、どのように判断しているのかを、自分自身で見つめ直す働きです。
少し難しく聞こえるかもしれませんが、特別なことではありません。
例えば、作業前に「この作業は何度も経験しているから大丈夫」と考えたとします。
そのとき、もう一度自分に問いかけてみるのです。
「なぜ大丈夫だと思ったのだろう」
「昨日と今日で、作業条件は変わっていないだろうか」
「危険な部分を見落としていないだろうか」
こうして自分の判断を振り返ることが、メタ認知の実践になります。
自分の考えを、もう一人の自分が少し離れたところから見つめるようなイメージです。
人間は、自分の判断の偏りに気づきにくいものです。
だからこそ、意識して問い直す習慣が必要なのです。
■ Stop-Look-Thinkを習慣にする
私は、安全行動の基本として、Stop-Look-Thinkを勧めています。
- Stop(止まる)――いつもの思い込みで判断せず、一度立ち止まる。
- Look(見る)――周囲の状況や変化を、もう一度よく確認する。
- Think(考える)――今の判断は本当に正しいのか、どのように行動すべきかを考える。
例えば、現場で作業を始めようとしたときです。
昨日と同じ場所、同じ作業、同じ作業員だからといって、今日も同じ条件とは限りません。
足元の状態が変わっているかもしれません。
使用する機械の調子が違うかもしれません。
ほかの業者の作業と重なっているかもしれません。
そこで一度立ち止まり、変化を確認する。
そして、安全な作業方法を考える。
この小さな行動の積み重ねが、安全を支えることになります。
ただし、危険が差し迫っている場合は、立ち止まって考え続けるのではなく、直ちに退避するなど、あらかじめ決められた安全行動を取ることが必要です。
■ 人間の注意力だけに頼らない安全管理
もう一つ大切なことがあります。
それは、認知バイアスへの対策を、一人ひとりの注意だけに任せないことです。
「もっと注意しなさい」
「しっかり確認しなさい」
これだけでは、十分な安全対策とはいえません。
人間には、誰にでも認知の限界があります。
だからこそ、作業手順書やチェックリスト、指差呼称、危険予知活動などを活用する必要があります。
また、自分では気づかなかった危険を、仲間が見つけてくれることもあります。
「ここは危険ではありませんか」
「いつもと少し違いませんか」
こうした声を、経験や立場に関係なく伝えられる職場が大切です。
そして、指摘を受けた側も、自分の判断を否定されたと受け止めるのではなく、安全のための大切な情報として確認する必要があります。
認知バイアスは一人では気づきにくいからこそ、仲間と確認し合う仕組みが役立つのです。
■ 気づくことが、次の行動を変える
今週学んだ3種類のバイアスを思い出してください。
正常性バイアスを知っていれば、「いつも大丈夫」という判断を見直すきっかけになります。
確証バイアスを知っていれば、自分の考えに反する情報にも目を向けようとすることができます。
楽観バイアスを知っていれば、「自分だけは事故に遭わない」という思い込みを疑うことができます。
もちろん、毎回うまくいくとは限りません。
それでも、自分の判断を見直す機会を増やすことには意味があります。
そして、この「気づく」という働きは、次の安全行動へとつながっていきます。
■ 来週は、レジリエンスを考える
ここまでの連載では、人間がどのように判断し、どのような思い込みを持つのかを学んできました。
では、現場の状況が変化したとき、私たちはどのように対応すればよいのでしょうか。
いつもと違うことに気づく。
このまま作業を続けるとどうなるかを予測する。
必要な対策を考え、安全な方法に切り替える。
そして、その経験から学び、次の仕事に生かす。
これは、来週から取り上げる「レジリエンス」という考え方につながります。
レジリエンスとは、変化する状況に対応しながら、仕事を安全に進めるための能力です。
今週学んだ認知バイアスの知識は、その土台の一つになります。
■ バイアスを知ることが、安全への第一歩
人間はミスをします。
そして、人間は認知バイアスから完全に逃れることもできません。
だからこそ、人間の特徴を理解し、その限界を補う安全管理が必要なのです。
バイアスをなくすことはできない。しかし、バイアスを知ることで、自分の判断を見直すことはできる。
このことを、今週の5回シリーズを通して覚えていただければと思います。
大切なのは、思い込みをしない人間になることではありません。
思い込みがあることを理解し、気づき、必要な確認や行動につなげることです。
その積み重ねが、日々の安全を支えていくのだと考えます。