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― 阿部監督の件から考える「ゼロリスク社会」の危うさ ―
阿部監督に関する報道は、多くの人にとって非常にショッキングな内容でした。
もちろん、暴力や虐待が許されるわけではありません。
子どもを守ることは最優先であり、そのために児童相談所や警察が存在しています。
しかし今回の件を見て、私は別の視点からも考えさせられました。
それは、
「現代社会は、人間関係の“修復”よりも、“即時排除”へ向かっているのではないか」
という問題です。
かつての児童相談所は「緩衝材」だった
昔の児童相談所には、今よりも「福祉」の色合いが強くありました。
もちろん問題行動があれば介入はします。
しかし、その前に、
- 本人はどうしたいのか
- 家族関係をどう修復したいのか
- 本当に危険な状態なのか
- 周囲に支援者はいないのか
そうした「人間関係の調整」を行う役割がありました。
言い換えれば、
警察と家庭の間に入る“緩衝材”
だったのです。
現在は「ゼロリスク化」へ大きく変化した
しかし現在、児童相談所を取り巻く状況は大きく変わっています。
背景にあるのは、相次いだ児童虐待事件です。
「なぜ助けられなかった」
「なぜ見逃した」
社会から激しい批判が起こり、児相側も、
“もし最悪の結果になれば組織責任になる”
という強いプレッシャーを抱えるようになりました。
その結果、現在は、
- 警察との即時連携
- 情報の全件共有
- 身体的暴力が疑われれば迅速介入
という方向へ急速に変化しています。
これは子どもを守るためには必要な面もあります。
しかし一方で、
「間に入って様子を見る」
「家族関係を修復する」
という“グレーゾーンの支援”が、非常に難しくなっています。
娘さん自身が最も驚いていたという視点
今回、私が特に考えさせられたのは、
「娘さん自身が一番驚いていた」
という話です。
これは非常に重要な視点だと思います。
おそらく娘さんは、
- 行き過ぎた行動を止めてほしい
- 誰かに間に入ってほしい
- 家族関係を修復したい
そうした気持ちだった可能性があります。
ところが現代のシステムでは、一度情報が入力されると、
- 犯罪か
- 犯罪ではないか
という「1か0か」の処理へ一気に移行します。
その結果、
- 逮捕
- 実名報道
- 社会的失脚
という、本人も想像していなかった事態へ進んでしまうことがあります。
「人間の不完全さ」を許せなくなった社会
私は大学院で心理学を学びました。
ユング心理学では、人間には「シャドウ(影)」が存在すると考えます。
つまり、
- 怒り
- 嫉妬
- 支配欲
- 未熟さ
- 間違い
こうした“見たくない部分”も、人間には必ずあるという考えです。
本来、社会や共同体には、
その不完全さを受け止め、
対話し、修復し、
再び社会へ戻していく力が必要でした。
しかし現代社会は違います。
過ちが見つかると、
- 即排除
- 即断罪
- 即炎上
へ向かいやすい。
そこには、
「完全でなければならない」
という空気があります。
しかし、人間は本来、不完全な存在です。
安全の世界でも同じことが起きている
これは安全管理でも非常によく似ています。
昔の現場では、
- 「なぜそうなった?」
- 「何に困っていた?」
- 「どうすれば防げた?」
という対話がありました。
しかし近年は、
- ルール違反
- コンプライアンス違反
- 責任追及
ばかりが先行しやすくなっています。
もちろんルールは必要です。
しかし、
「人を責めるだけの安全」
では、本当の改善は起きません。
なぜなら、人は失敗を隠すようになるからです。
心理的安全性が失われるからです。
緩衝材を失った社会
今の社会は、とても「正しい社会」に見えます。
しかしその一方で、
- 失敗できない
- 間違えられない
- 修復の余地がない
そんな息苦しさを抱えています。
本来、人間社会には、
- 仲裁する人
- 話を聴く人
- 感情を整理する時間
- 関係を修復する余白
が必要です。
つまり、
“緩衝材”
です。
それを失った社会では、人は剥き出しのシステムに直接裁かれることになります。
それは一見クリーンに見えます。
しかし実際には、とても冷たく、そして脆い社会なのかもしれません。
最後に
私は安全コンサルタントとして、常に考えています。
本当に大切なのは、
「ミスをゼロにすること」ではなく、
ミスや問題が起きた時に、人を壊さずに立て直せる社会を作ることではないか。
人間は不完全です。
だからこそ、
- 支える仕組み
- 修復する文化
- 話し合える空気
が必要です。
ゼロリスクだけを追い求めた先に、本当に人間らしい社会があるのか。
今回の件は、そのことを改めて考えさせられる出来事でした。